キウイXのつぶやき

今はスーパー戦隊関連、特にルパパト関連の呟きその他をまとめたり考察したりしてます。ルパパトのノエルのスピンオフについて二言目にはしつこく要望してます。

ルパパト: 構造や売上が ノエルと警察、それから結末に与えた影響について(長文2)

※「ルパパト: 構造や売上が ノエルと警察、それから結末に与えた影響について」の後編です

 

■迂闊に活躍や思いを描けない

 ノエルが快盗としての覚悟を魁利達に認められたのは25話。では同様に警察としての覚悟を圭一郞達に認められたのはいつだろう?

32話の決闘は違う。あれは快盗でも警察でもない自分だけの道を行くというノエルの思いを吐露した回ではあるけれど、それが圭一郞にどこまで伝わったかは疑問。実際に44話で圭一郞は決闘の時のノエルの言葉を思い出し、「俺はノエルの思いを聞こうとしていたのか?」と自問している。

私はてっきり38話のサイレンストライカーの回になるかと思ったけど、実際はとてつもなくほど遠かった。快盗として警察を足止めに行った所をデストラに襲われて逆に圭一郞達に「胡散臭いが人間なら助ける」だもん。この回のノエルの扱いは個人的には思い出すだけで今でも辛い。

43話ではそれでもこれまでの積み重ねで「ギャングラーのスパイなんかやるような奴じゃない」とは言われるようになり、47話で警察と街を守るために自分を差しだした後、やっと次の48話で「ノエルは人々を守るため」と認められた。快盗に認められてから22話後。長かった。何でこんなにかかったんだろう。

 

個人的にはこれもテコ入れの影響だと思う。

パトレンが思うように活躍出来なくなった状態で、ノエルはこのしわ寄せというか、VSのバランスの調整弁的役割を果たさなければならなくなったと思う。

まず、ビークルを渡せなくなったこととつじつまを合わせるように、日本に来てからのノエルは、コレクションは絶対に快盗に集めるとし、前述したようにそのためなら警察も足止めするというスタンスになった。30話ではビークル提供どころか、逆に圭一郞の怪しい動きを魁利に探らせ、結果的に警察のスプラッシュ獲得阻止に繫がってしまう。26話27話が快盗よりの活動だった事もあり、ネットではこのあたりからノエルの快盗贔屓に対する不満の声も聞こえて来るようになった。個人的には当初はスプラッシュ以降はしばらく警察での活動が中心になる予定だったのでは?って気もするけど。

でもそれだけではないはず。本気で描こうと思えば圭一郞達に警察の覚悟を認められるエピソードが作れなかったとは思えない。

だけど、物語の根幹を背負ったノエルが警察への思いや決意、貢献をはっきり打ち出すような、いわゆる燃えるエピソードを描いてしまったら、活躍が制限された状態のパトレンはそれに耐えられずに霞んでしまっていたんじゃないだろうか?とも思えて。

またそもそもパトレンのエピソード自体が限られてしまうなら、その尺はまずきちんとパトレン3人に割くべきではないか?そんな懸念や判断があったのでは?と思う。

なので当初予定になかった強化と引き換えに、VSとしてのバランスのためノエルの警察への思いや決意、貢献の表現はセーブまたはぼかすか先送りにという判断だったのかもと。極論すれば、路線変更後の警察とノエルの関係において、

 

活躍を制限された警察がその結果更に見劣りしてもノエルをきちんと描く

活躍を制限された警察の描写ボリューム確保、好感度や精神的優位性を保つためにノエルは描かないか引き伸ばす

 

の2択となり、当初予定に無かったスーパー化と引き換えに後者を取ったのではと。

 

例えば35話のコグレが分裂した回。ネットの各所で「ノエルは警察の役に立っていない」という不満がいくつも見られた。一方で、それに対して「圭一郞達が被害者を元に戻す方法はノエルが教えたもので、それが無ければ被害者は全滅だった」という反論も見られた。なおこれ以外にノエルはタイムオーバー寸前のコグレを魁利達に任せて自分は圭一郞達の被害者救助が間に合ったか様子を見に行っている。

これらの動きをもっとわかるように描けば、少なくともこの回のノエルを「警察にとっては役立たず」と言う声は少なかったんじゃないかな。

ただし「ノエルが危険性と救出方法を教えたから被害者は助かった」ときちんと見せた場合、警察の見え方はどうなっていたか。

この回のパトレンは冒頭の戦闘は分裂した被害者の「悪い人達」に翻弄され、前回がルパンマグナム初登場回という影響もあって2話連続で目立った活躍はしていない。

その後は変身せずに制限時間内で体を張って被害者を元に戻していた。それがノエルの指示のままの動きだったとハッキリ見せていたら、あの回の警察の扱いに不満を持つ人は更に増えていたのではないかという気がする。

また数話前にそうして助けて貰ったノエルに38話で「胡散臭いが人間だから助ける」と力強く言い放つ圭一郞はどう見えていたか。実際、「ノエルだって警察に貢献してるのに」と思う私はあの言葉が未だに受け入れられない。

 

誰にグッティ梱包が可能か考えればノエルの警察への思いは本物で、装備のなかった時代の圭一郞達の苦労を考えれば装備提供の貢献はとても大きい。それもルパン家を裏切ってまで。

でもそれをハッキリ描いてしまうと「なのに警察はあんなに辛くあたって」と悪役になってしまいかねない。ただでさえ戦闘面での活躍を制限される中でそれはあんまりだと思ったのではと。では仮に視聴者だけにわかる形ででもノエルの平和に対する真の思いを描いていたら?仮面ライダーエグゼイドの九条貴利矢みたいにノエルだけは一気に同情と人気を集められたかもしれないけれど、そんな描き方は絶対に許されなかったのではと思う。

香村さんてこれまでの作品ではむしろ主人公や二号ライダーの行動原理を人一倍きちんと描く方だったと思うから余計にそう思う。

 

■助ける、助けられるの見せ方 

VSの形を守るため、警察はしばしば、結果的に快盗に助けられてもいる、という事から目を逸らし続けてきたのでは、というのは前編の最初の方で書いた。ノエルについてもそれは同様かそれ以上に徹底されていたと感じている。

路線変更前でも、ウシバロックの講師失踪事件を解決したのも、タマテバッコの老化煙からパトレンを遠ざけてルパンだけで倒したのも決してコレクションの為だけではなく、警察の名誉や安全のためでもあったと私は思っているけど、圭一郞達は現実に助けられてもいるのに憮然としているだけだった。

一方、ノエルはこまめに御礼を言ったり時に印象的に自分が助けられた事をアピールしている。

もちろん圭一郞達にも胡散臭い、信用出来ない、隠し事ばかり等の言い分があるのはわかる。だけどそういう見せ方によっても、視聴者にもノエルの警察への思いや貢献は尚更伝わりにくくなった可能性はないだろうか?

 

例えば、32話の決闘は圭一郞がノエルに勝ちを譲った形で、それに対しノエルが「借りだね」と感謝を口にして印象付ける。でも私から見れば、頑なに共闘を拒むも、実験体を倒し街を守る代案を見つけられない圭一郞も、決闘に巻き込まれた時点で実は同じかそれ以上に救われてる。でも圭一郞も物語もそんなそぶりは一切見せない。

スプラッシュが当初の警察ではなく快盗に渡り、テコ入れを意識せざるを得なくなった次の回、実験体にパトカイザーが敗れるラストからの決闘の予告を見て、圭一郞や警察が今後どんな粗末な扱いを受けてしまうのかという心配の声がたくさん上がっていた記憶があるから、そうではなくむしろ圭一郞はノエルに貸しを作ってやったんだという見せ方にしたのは正しかったんだろうなと思うようにしているけど。

警察上層部が対策会議をしても解決出来ないピンチを決闘からの共闘で救われても圭一郞達のノエルを見る目は変わらない。33話でノエルは1度圭一郞を助けてるけど変わらない。35話の分裂回でのアドバイス、36話の爆弾回で一致団結、ノエルも圭一郞と咲也のピンチを助けるのに協力しても変わらずに「人間だから助ける」。

テコ入れ後はとにかくより念入りに「ノエルに結果的にでも意図的にでも助けられた」という印象を見る人に持たせないように注意し、逆にノエルを助けた事はより強くアピールしたかったのでは?とさえ思えてくる。

   

咲也が「なんで仲良くなるよう仕向けたんですか?面白がってたんですか?」とノエルの襟首を掴んだ時に、異世界回で「見捨てたら魁利達が傷つく」と透真に庇われたつかさなら、それを指摘しノエルをフォローする事も出来た。でもしない代わりにザミーゴ情報を隠した事を謝ったのが違和感あった。穿った見方なのを承知で言えば、指摘する事で「正体を隠した快盗と仲良くなった事で実は一方的に守られてもいた警察」「それに思い到らず襟首掴んだ咲也」と見られるよりも、「自分達も散々隠し事をされたのに謝れるつかさ」という見せ方を選んだんじゃないかな?と思いたくなる。

ノエルが警察や街を守るために捕まった後、警察は苦悩するけれど決して「自分達のためにノエルが」とは言葉にしない。翌朝、「ノエルは人々を守るために」とやっとここでノエルの警察としての思いを指摘すると同時に「そこに思い到れる圭一郞」「ノエルの犠牲は警察のせいだけではない」と見せる。

香村さんはこういう台詞の選び方が上手いし狡い。

個人的にはテコ入れでパトレンの活躍が描きにくくなってから、圭一郞達のマイナス面を迂闊に描けなくなった部分はあるのでは?と思う。

活躍させづらい分、精神的優位性や好感度だけは守りたい、というバランス感覚を感じる事が何度もあった。それはやむを得ないと思う。ただ、たいていの場合そのしわ寄せはノエルに行っていたように見えてしまい、その最たるものが38話だったのではと。

結果、一部の人達から「警察は優しすぎる。快盗びいきで役立たず、助けられてばかりのノエルなんか叩き出せ」「死んで詫びろ」とまで過激な事をいう人も出てきてしまったのかなと思うともどかしい。

ノエルは終盤になって今度はパトレンを身を呈して庇う事を繰り返したけれど、物語の中だけでなく視聴者にとっても、体を張って好感度や精神的優位性を守ったという意味で、パトレンの盾だったのでは?という気がちょっとしている。 

もっとも、好感度に気を使われていたのは快盗も同じで、終盤、私はノエルばかりが御礼と謝罪を繰り返す状況に少し疲れていた。

 

 ■向き合うのを避けた警察のジレンマ

ノエルの描写の事ばかり言ってきたけど、これらの事は警察にも影響を与えたと思う。

テコ入れで販促が快盗とノエルに傾く中で、ノエルと警察とのバランスや好感度等を考慮した結果、「警察はなぜ戦えていたのか」「自分達の力だけで平和を守れない」という問題に迂闊に触れられなくなったのではないだろうか?

快盗達との時のように段階的にノエルが警察との関係を深めていけば、同時にノエルの抱える秘密にも警察は近づいていく事になる。両者が最終的に本当の仲間になり関係が完成するには、ノエルがルパン家所属を明かしてこそだと個人的には思う。でもそれは同時に圭一郞達と視聴者に「警察はなぜ戦えていたのか」と改めて突き付ける事になる。

当初はむしろ圭一郞達がそれにどう向き合い、最終的にはルパン家の願いに対してどんな答えを出すのか、までをパトレンの後半から終盤にかけての物語の核にしたかったのでは?とも思えている。

けど、テコ入れ後の両戦隊やノエルとの不均衡の中でそれに取り組んで持ちこたえられる体力は今のパトレンにはないから避ける、避け続けるという判断だったんじゃないかな?

そしてルパン家の願いに対するパトレンの最終的なスタンスを打ち出せない状態でルパン家の願いに決着を付ける事は出来ず、それを「VSの継続」という答えにしたんでは?と思う。少なくとも本編では。

 

だからノエルと警察との関係はイベントはあってもそれによって両者の関係がはっきり変わるという描き方はされないまま最終回を終えてしまった。

1年後の両者の関係もかなりぼかされている。ノエルが国際警察に籍をおいているか否かすら分からない一方で、警察がノエルに協力してコレクション回収代行している可能性も感じさせる。

 

VS続行という結末を評価する声がとても多いのは承知の上でそれでも私は、警察とノエルの関係が、VS戦隊のもう片方の快盗と比べてあまりにも不完全でバランスが悪く感じるし、個人的にあまりにも終わった感じがしなさすぎるので、どうにかこの両者が本当の意味で関係が深まる続編をお願いしたいと思う。

販促の制約が不自由すぎた本編枠よりもむしろ自由がきくのではと思えるので尚更だし、本当は制作側もそう思ってない?と感じてしまう。

 

なお、宇都宮Pと香村さんのコンビはジュウオウジャーでも中盤で本筋のバド関連を引っ張ったので、ノエル関連を引っ張ったのはこのコンビの傾向では?という考えもないわけではない。

でも私の見る所、ジュウオウも2000回記念のゴーカイジャーとのコラボ回がなかなか日が確定しなかった挙げ句にジュウオウホエール登場のタイミングと完全に重なり、当初そこで予定していた物語が後ろにずれた可能性もあると考えている。

 

ここまで構造やテコ入れの影響を専らノエル中心にネガティブに書いてきたけれど、基本的にはこんな難しい舵取りの中でそれでも毎回クオリティの高い番組で1年間楽しませて貰えた事には感謝もしている。

また、あくまでいちノエルファンの視点、テコ入れがなかったら見る事の出来なかった物の中に好きなシーンがある可能性もあるし、お子さん等は弱体化より強化の方が嬉しかったりもするだろうことも承知している。

またパトレンファンの方から見たら、不平等に耐えてきた痛みはこんな物ではないと思われたらお許し下さい。